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中屋のこだわり

中屋の好きなもの

百科事典

■はじめに

中屋は伊万里焼きのみならず焼物が大好きです。磁器も陶器も日本内外にとらわれず素晴らしい質感のものがあり、目を奪われることが頻繁にあります。
中屋で多くの品物をプロデュースしている蒔絵のベースとなっている漆では 現在多くの新種の材料を採用して明色系の色合いを表現して参りましたが 基本的には明るい色は漆では完全には表現が難しいのが特色です。
皆様もご存知の如く、漆の白は純白ではなく、この白を表現する為に卵のカラ(卵殻)や 貝(螺鈿)を伝統的に使用して参りました。一方で、磁器は現在から600年前に白磁鉱が発見されたことにより白い素材が生成され衝撃的なインパクトをもたらしました。『美しい白』、『透きとうる青』は陶磁器のもつ属性として人々を魅了してきました。
中屋では、蒔絵の装飾をしながら明色系の磁器と落ち着いた風合いの漆(蒔絵)を今後万年筆周りのアイテムに融合させていき、美しい品物が出来るのではと考えております。

■古伊万里について

王侯貴族や富裕階級は、東洋貿易の中心であるオランダ船が入港するアムステルダムに陶磁器専門の買付代理人を置き、争って磁器を買い求めたといわれています。そうして手に入れた品々を「磁器の間」を設けては、壁面を埋め尽くすように床から天井に至るまで磁器を配し、「ポーセレン・キャビネット」という陳列棚をしつらえては誇らしげに飾り、惜しげもなく人目に晒すことで、自らの権力・財力を誇示したのです。流行はヨーロッパ各地に広がり、各国の宮殿に次々と磁器が集められて行きました。これらの多くは現在、各国の美術館・博物館などの古伊万里コレクションの基となっています。中でも熱狂的な古伊万里蒐集家であったフリードリッヒ・アウグスト1世が、17世紀から18世紀にかけて蒐集した千点を超える古伊万里コレクションは世界的に有名で、ドレスデンの陶磁美術館(ドイツ)に展示、保管されています。
東インド会社が中国から輸入した量は、1604~1657年で約300万個。うち伊万里焼は1652~1683年の31年間で190万個と、長崎の出島商館長の日誌に記録されています。これはオランダ一国の数量ですから、ほかの東インド会社の分も合わせると、膨大な焼き物がヨーロッパに運ばれました。古伊万里は日本の生んだ最初の国際ブランドとして現在でも名を知らしめています。こうして東洋の焼き物は、17世紀のヨーロッパの貴族階級に行き渡ったと考えられ、コレクターもいました。その一人が前述のドイツ・ザクセンのアウグスト王です。

■伊万里焼きとは?

九州佐賀県の有田で焼かれ始めた磁器は鍋島藩の保護育成と厳しい管理のもと、十数キロはなれた伊万里の港から全国に向けて積み出されました。伊万里に於いても磁器は作られていましたが、出荷地が海が近くで港がある伊万里の地であった為、特に海外では「伊万里焼」と呼ばれるようになりました。これが、江戸時代の古い有田焼を古伊万里というゆえんです。 「古伊万里」は、柿右衛門・鍋島各系を除く幕末以前の有田焼すべてを含んでいます。伊万里焼の特徴として大まかに3つの流れに分けることができる。古伊万里調・柿右衛門調・鍋島調がそれである。

古伊万里
古伊万里の特徴としては、人形や壺などに見られるように、金や赤などの色をふんだんに使い豪華・絢爛・自由闊達と表現されるものがおおい。これは外国人の注文に応じて制作したためと考えられる。ただし藍色一色のものもある。

●柿右衛門
1645年 酒井田柿右衛門が初めて赤絵を焼いてからは有田磁器の名声は更に高まりました。これが日本で最初の色絵磁器と言われています。・柿右衛門の特徴の第1は『にごし手』と呼んでいる乳白の素地にあり、第2に上絵に使われる彩釉で、種類は極めて多い。赤・緑・金・黄・青・紫・黒等を用い、時に銀も用いています。特に色々な赤の色の表現には特に苦心を重ねており、これらの赤に対しては、世界的に定評がある。柿右衛門の特徴としては、白磁の白を生かすための色絵と言われるくらい空間が多くすっきりとしている。柿右衛門は柿色の赤があまりに有名だが、色絵付けの方法は、伊万里の東島徳左衛門が長崎に来た中国人から習い、これを柿右衛門に伝えた。その後苦心の結果1643年に色絵付けに成功している。

●鍋島
鍋島には色鍋島と鍋島青磁・染付があるが特に色鍋島の特徴としては、上絵の色が赤・黄・緑の3色に限定されている。また描かれた線が非常に細く無駄な遊びがない。

■作品一覧

コーヒー碗皿 水差しワイングラス

作品名:古伊万里金彩牡丹(グリ-ン)コ-ヒ-碗皿

作品名:鍋島桜コ-ヒ-碗皿

作品名:古伊万里金彩牡丹(赤)コーヒー碗皿

作品名:献上手古伊万里継高台コ-ヒ-碗皿

作品名:錦アヤメ継高台コ-ヒ-碗皿

作品名:錦唐草(赤)継高台コ-ヒ-碗皿

作品名:染付丸紋三ッ足五寸皿

作品名:色絵唐草4寸高台皿

作品名:御所車4寸高台皿

作品名:小手まり4寸高台皿

作品名:色絵唐草五寸高台皿

作品名:鍋島青磁桜花紋五寸高台皿

作品名:御所車五寸高台皿

作品名:小手まり七寸高台皿

作品名:椿七寸高台皿

作品名:鍋島桃花果実七寸高台皿

作品名:古伊万里籐花捻菊高台ハ寸皿

作品名:古伊万里籐花捻菊高台ハ寸皿

作品名:上絵刷毛目三ヅ足七寸皿

作品名:古伊万里籐花水差し

作品名:古伊万里籐花ワイングラス

作品名:古伊万里金彩牡丹(グリーン)ワイングフス小

作品名:古伊万星金彩牡丹(赤)ワイングフス小

■世界の磁器の状況    ~ヨーロッパを中心として~

ヨーロッパに最初に中国磁器が登場したのは13世紀。 ベネチアのマルコ・ポーロがもたらしたと伝えられています。その後15世紀から始まった大航海時代による東洋貿易の結果、東インド会社が中国 朝鮮へ色々な商品を出荷した際の帰りの積荷として磁器を持ち帰り貿易としていましたが朝鮮での戦争となり、偶々九州に漂着した貿易船が有田で焼かれた磁器を持ち帰り欧州で大きな反響となった。有田の焼き物は伊万里焼として伊万里の港からオランダ東インド会社の手でヨーロッパに持ち込まれました。東洋の焼き物が輸入されるまで、ヨーロッパの食器は木、陶器、銀器、錫の合金のいずれかで、薄くて丈夫な白いガラス肌の磁器はせん望の的でした。17世紀初頭からオランダ東インド会社は、中国からヨーロッパに数多くの磁器を輸入していましたが、中でも最も高く評価され、”Blue and White”と呼ばれて人々に愛されていた磁器が中国景徳鎮の染付でした。しかし17世紀中頃に入り中国の政情が混乱したため、オランダ東インド会社は中国との貿易を断念せざるを得なくなったのです。

■景徳鎮から伊万里へ  ~そしてヨーロッパへ

その時、中国景徳鎮の代わりとして注目されたのが古伊万里でした。ヨーロッパにおける磁器製造と柿右衛門様式や古伊万里様式の模倣は、ここマイセンから始まったのです。17世紀当時ヨーロッパには陶器はありましたがまだ磁器を作る技術がなく、陶器より遥かに優美繊細で透光性のある磁器は謎の製法で生まれる神秘のベールに包まれた未知の世界の財宝に他なりませんでした。
ヨーロッパの人々には、中国磁器や古伊万里は金銀財宝と同じ価値を持つ富と権力の象徴だったのです。王侯貴族や富裕階級は、東洋貿易の中心であるオランダ船が入港するアムステルダムに陶磁器専門の買付代理人を置き、争って磁器を買い求めたといわれています。そうして手に入れた品々を「磁器の間」を設けては、壁面を埋め尽くすように床から天井に至るまで磁器を配し、「ポーセレン・キャビネット」という陳列棚をしつらえては誇らしげに飾り、惜しげもなく人目に晒すことで、自らの権力・財力を誇示したのです。流行はヨーロッパ各地に広がり、各国の宮殿に次々と磁器が集められて行きました。これらの多くは現在、各国の美術館・博物館などの古伊万里コレクションの元となっています。中でも熱狂的な古伊万里蒐集家であったフリードリッヒ・アウグスト1世が、17世紀から18世紀にかけて蒐集した千点を超える古伊万里コレクションは世界的に有名で、ドレスデンの陶磁美術館(ドイツ)に展示、保管されています。東インド会社が中国から輸入した量は、1604~1657年で約300万個。うち伊万里焼は1652~1683年の31年間で190万個と、長崎の出島商館長の日誌に記録されています。これはオランダ一国の数量ですから、ほかの東インド会社の分も合わせると、膨大な焼き物がヨーロッパに運ばれました。

古伊万里は日本の生んだ最初の国際ブランドとして現在でも名を知らしめています。 こうして東洋の焼き物は、17世紀のヨーロッパの貴族階級に行き渡ったと考えられ、コレクターもいました。その一人が前述のドイツ・ザクセンのアウグスト王です。

■ドイツ・マイセンの発祥

17~18世紀のヨーロッパの王侯、貴族にとって、日本や中国の陶磁器は、金、銀と同じ価値を持っていた。かれらはオランダのアムステルダム港に陶磁器専門の買付け代理人を置いたという。そしてハプスブルク家、ブルボン家、ハノーバー家など当時のヨーロッパの支配者たちは、コレクションだけではあき足らず、他国から陶工や絵付師を連れて来て自領内で焼かせるほどになった。有田の美に酔いしれた王侯の典型──それがドイツ・ドレスデンの王オーガスタ・世である。
80人もの愛人との間に200人の子どもを設ける絶倫ぶりと、他国の王位を奪い取る政治的野心のために「剛胆王」とあだ名された男がいる。ザクセン選帝公国の君主、フリードリヒ・アウグスト1世(ポーランド王アウグスト2世 1670~1733)だ。絶対主義君主が覇権を競ったこの時代、怪物の如き剛胆王が最も精力を注いだのは「美」だった。まず、首都ドレスデンを「エルベ川の真珠」、「ドイツでもっとも美しいバロック都市」と言われるまでに整備した。さらにこの都に絵画、宝飾、磁器とあらゆる美術品をもたらし、市民に開放したのである。剛胆王は、ヨーロッパ随一の文化行政都市ドレスデンを築き上げることで、自らの名を内外に誇示したのである。この豪華なコレクションを今に受け継ぐのがドレスデン国立美術館である。ラファエロやレンブラントの傑作が居並ぶ「古典絵画館」や、この世に二つとない宝飾品が目白押しの宝物館「緑の丸天井」、有田焼など世界中の磁器2万点を集めた「磁器収集室」など12部門から構成される。その驚異の収集品が豪胆王の死後も歴代君主により守り続けられ、第二次世界大戦の戦禍を潜り抜けながら散逸せずに伝えられたことは「ドレスデンの奇跡」と言われている。
彼は特に日本の磁器、漆器を好み、3万5千点あまりのコレクションを持ち、伊万里焼だけの宮殿を計画したほど。ついに自分自身で東洋の磁器と同じような焼き物を作る決心をしました。それが、ドイツのドレスデン北西方のマイセンに開いたマイセン窯です。王はドレスデンにやってきた19歳の錬金術師、フリードリッヒ・ベトガーを監禁、磁器の開発を強制しました。1694年のことです。ベトガーは後に、科学者で数学者のE・W・フォン・チルンハウゼンと二人で研究に取り組み、やがて朱泥のようなせっ器を作り、14年目の1708年、ついに本格的な白磁器の開発に成功しました。
当時、磁器製造法は最も先端的なテクノロジーで、多大な利益を得られる最高の機密でしたから、べトガーの監禁も秘密が漏れるのを恐れたためですが、この成功は悲劇も招きました。?チルンハウゼンは病に倒れ、ベトガーも拘禁による精神的苦痛から酒におぼれ、やけどがもとで39歳で亡くなっています。「剣」を組み合わせたマークで知られるマイセンの栄光は、こうして受け継がれ、ドイツは世界でも一流の磁器王国になりました。マイセンの焼き物は、日本の磁器よりさらに高い、1400度以上で焼くことのできる土を使用するのが特徴です。
高温でも崩れないように少し厚手で、釉(ゆう)も堅くなり、あまり上絵に向いていません。また、マイセン磁器の大きな特徴の一つは、ベトガーが苦労の末に見出した カオリンと呼ぶ上質な白磁土の焼成による、輝くような透明感にある。カオリン含有率65%の世界一の磁器質で磁器に必要なガラス質や鉱物の複合要素で含有率が高い程、 精細度も高く、非常に硬い磁器が製造されます。但し鉱脈にも 限りが有り、生産量が不安視されます。このあたりがマイセンの高価な理由の一つとされる。現代のマイセン商品ががっちりした仕上がりになっているのは、国民性というより材質のせいです。日本のように自然土をそのまま利用するわけではないので、その分、純度が高く、鮮やかな色合いが出せます。また日本を手本としたこともあって、東洋調のデザインが今も多く息づいています。

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